「きみに夢中」

自分を不幸だと思ったことは一度もない。
でも満たされぬ思いはいつもどこかにある。
僕はまだ夢を捨ててはいないから、それはそういうものなのだと思う。
けれど、それが自分の力で満たせるのか、誰かが満たしてくれるのか、チョッと自分に頼る根性が欠落しはじめていた。
自分で探すか、待てば来るか…だいたい自分はそこまでして何故その夢を果たしたいのだろう?
「…って、ここでこんなことしてていいんだろうか?」
就職活動が散々だった僕は、家のそばにあるコンビニの棚に並んで(買ってくれ)と頼む雑誌から手を放してため息をついた。
店内をあてもなく徘徊した後、テレビで宣伝していたお菓子をつまみ上げレジで精算して店の外に出た。
なんだかなぁ…。

ふと気づくとすれ違う人は早々に夏の装いで町を歩いている。
僕は自分の洋服に目をやり「寒い寒いと思っていたらもうこれだ、春はどこへ行ったのかねぇ」と文句を言いながら歩道を歩き始めた。
でも、人間って身体が動いている方が脳もポジティブな動きを始めるらしい。
バイトの湯鬱さを吹っ切るためにも、ついでに公園へ寄り道をすることにした。
幸いにも手には新商品のお菓子もある、ハトと一緒に味見しよう。
そう決めて、お気に入りの芝生あたりに目をやると、ありゃりゃ先客が。
踵を返そうとした途端、その先客はニッコリ笑って手を振った。
僕?…ん−なわけはない、僕は必然的に後ろを振り返ったが誰も居ない。
(やっぱり僕?!誰だ?誰だっけ?)ドキドキしているとさらに相手はこう言った。
「芦刈さんのお気に入りの場所取っちゃってごめんなさい。どうぞ…」
自分の隣を、当たり前のようにすすめる。
(名前呼んだよ〜!)その後数秒、記憶回路はフル回転である。
思い出せ、思い出すんだ、いや絶対思い出さねば!こんな可愛い女の子を忘れるわけが無いだろ!
だが、たった数秒で僕の脳はポン!と白い煙をあげた。
「今日、アルバイトは休みでしたよね」そりゃもう天使のような笑顔である。
「ああ、はい…」僕はチョッと間抜けかも。
「大変みたいね」「うん、まあね…」なんだかたいした会話でもないのにいい雰囲気。
やっぱり彼女を知っていて当たり前だって気がするんだよな。
ますます君はだれ?とは言えなくなってきた。
でも、知っているとすれば、どうして僕は彼女を忘れてしまったのだろう?
こんなにも彼女を知っている気がするのに…。

公園の心地よい風が彼女の髪と白いワンピースを揺らしている。
それに手招されるように、僕は彼女のそばに行く。
いつもの木陰はいつものとおり静かでひんやりとした風が通る、それがチョッと満足。
彼女が僕を見上げる。
確かに緊張はしていた、でも何か暖かいものがフワッと心の中に広がっていった。
芝生に腰を下ろすと、手に持っていたコンビニの袋がガサガサとムードぶち壊しの音を立て、彼女がクスッと笑う。
「お菓子買ったの?」
僕がうなずくと、彼女は自分が持っていたバスケットを開けてこういった。
「私、コーヒーとサンドイッチ持ってるの」
人生ってある程度簡略なパターンにはまるものである。
しかし、女の子とお菓子とサンドイッチというアイテムが揃ったからといって、いきなりピクニックというのでは、あまりにも安易なアドベンチャーゲームではないか?
…などと形だけ抵抗してみても、結局は芝生の上で弁当をひろげていたりする。
「おいしい?」「もう、すっごく!」心の底からそう思った。
人違いだとわかって、後からかえせといわれてももう遅いのである。
僕の食べてる様子を見て彼女も嬉しそうに笑う。
こうなると罪悪感を飛び越え、彼女への興味だけが膨らみ初める。
「明日、面接受けに行くんでしょう?」不思議なことに彼女が僕のことをどれだけ知っているか、なんてこともどうでも良くなっている。
「うん、行くよ」
「良かった…」良かった?
「でもさ、またダメかもしれないから、あんまり期待しないでおくよ」今度落ちたら半端じゃなくへこみそうだもん。
「どうして?あそこで働きたくないの?」
「働きたいよ!!」無意識に声が大きくなっていた。
「・・・ゴメン」とっさに彼女に謝った、さっきまで最悪だった気持ちがまたぶり返しそうになった。
「うんん、私こそごめんなさい。でも、今度はきっと大丈夫だから」
『きっと大丈夫』イヤと言うほど聞かされた言葉だ、でも大丈夫だった試しは今のところ一度もない。
だから見ず知らずの女の子に軽々しく言われたく無いのだ。
…なのに…なのに…その言葉はかたくなになっている芦刈の心にいとも容易く入り込んでくる。
月並みで、ありきたりで、なんの効力もない、そんな言葉に安堵してしまう自分が無性に悔しかった。
「私はあなたならいいかな…って思って」
たぶん彼女以外の人間にそう言われたとしたら、ここはもう一度切れる場面だったかもしれない。
だが、たとえ誰に必要とされなくても、彼女に請われる心地よさに芦刈は息を吐いた。
「きみは誰?」
このままではダメだと思った、やっぱり彼女のことを知りたい。
「知りたい?」
「ああ、悪いけど僕は君のことを何も知らない。忘れてしまっているなら謝る。でもゴメン、本当に憶えてないんだ」
僕は初めて彼女の顔を真っ正面から見ていた。
可愛い顔、困った顔、僕がそんな表情にさせてしまったんだ。
「それに答えるとココにいられなくなるの。答を手に入れて私を追い払うか、もう少しのあいだ私とこうしているか、答は二つに一つ」
何を選ぶか、どちらを手に入れるか。
命あるモノだけが坂道を上りチョイスすることで前に進んでいく。
たかだか見ず知らずの女の子と他愛のない会話をしているだけなのに、僕はどういうわけか背中にひどく汗をかいていた。
けれど、どんなチョイスにももう一つ選択肢が隠されている。
それはどちらも選ばない…を選ぶこと。
でも僕は選んだ。それもきわめて単純な理由で。
彼女がニッコリと微笑んだ。
僕は自分が選んだ答えに心から満足した。
そう、僕は彼女のこの笑顔が見たかっただけだ。
(あと少しのあいだ)と彼女は言った。
だけど考えたって謎が増えるだけなら僕は今、彼女の笑顔を見ていたい。
なんだか吹っ切れて空を見上げると、梢の間から太陽のかけらがいくつも降っていた。
お腹も大きくなったし、天気はいいし、僕はグンッと背伸びをして芝生に転がった。
「気持ちいい〜!」こんなふうに空を見上げるなんてどれくらいぶりの事なんだろう?
これは精神衛生上の快挙に違いない。
最近、肋骨のあたりに住み着いていたもやもやが一気に晴れたような気がした。
ふと見上げると彼女が僕のためにリンゴをむいてくれている。
コレって絵に描いたようなカップルだよな。
チョッと首筋をポリポリとかいたが、どうにも気になる事がある。
それは彼女のリンゴをむく手があまりにも危なっかしいのだ。
(不器用だな…)悪気はなく率直な感想である。
僕はバイトでイヤと言うほど魚をさばいていた。
加えて言うなら、鰺切り包丁を使わせれば日本一…って気がするぐらい。
「かしてごらん」
リンゴを受け取りスルスル…と剥き出す。
彼女は無邪気にパチパチと手を叩いた。
どうやらこれからコレは僕の役目になりそうである。
喜ばれると嬉しい、凄いって言われれば調子に乗る。
人間とはそういうものである…って、僕だけか?
タダ普通に剥けばいいものを「ほらこんな剥き方も出来る」とか「ほ〜ら、こんなに長くなった」とかアホしているうちに案の定指まで切ってしまった。
痛いより格好わりぃ〜!って顔をしかめると、彼女はあわてふためいてバスケットからハンカチを取り出し僕の指に巻き付けてくれた。
このずんぐりした不器用なハンカチを見て、また彼女が可愛く思えた。
「痛む?」「ううん、応急処置の手際が良かったから」
チョッと困った表情、でも一安心って顔をした。
「今日はこれからどうするの?」
「ん?僕が決めていいの?」
彼女は首を少しかたむけ、「ええっ」と、うなずいた。
「じゃ、もう少しこうしてたい・・・・」また芝生に横になる。
もう少し、うん、もう少しだけ・・・。
たぶんもうすぐモラトリアムは終わる。
フワッとした感触のものに抱き留められる心地よさに、僕は目を閉じて微笑んだ。
「もうすぐ私たちは出会えるから。わたしを選んでくれてありがとう、わたしも・・・」
温度とも感触ともつかない彼女の声が僕の意識にとどいた。
『…そうか、まだあってないんだ。忘れていたわけじゃないんだ。なんだ、そっか…』


「・・・芦刈!」「芦刈、大丈夫か!!!」「おいっ!芦刈!!」
僕を呼ぶ声が遠くに聞こえる・・・ような気がした。
だってそのとき僕は一瞬真っ白になって、マナティプールの水面でブカブカ浮いていたのだから。
念願かなって『鳥羽水族館』に入社した僕の、間もない頃の出来事だった。
マナティの体重測定でつり上げていた鉄パイプが曲がり、はずれた反動で回転したそれが僕の額を直撃したのである。
病院に行きはしたものの絆創膏一つで釈放された僕は、重体説がながれる水族館に絆創膏一枚という威厳のない姿で戻っていた。
館内で誰かとすれ違うたび心配そうに声をかけられる。
「心配かけてすみません」そう元気に振る舞えば振る舞うほど、自分の不甲斐なさに自己嫌悪である。
(かっこ悪すぎ…)
ミーティングの時間になり飼育の部屋に戻ると、凄い出来事が僕を待っていた。
僕は明日新しくはいる生き物の担当になるのだ。
だが言われて驚いた。
「これ、明日水族館に来るから芦刈君担当」
「ぺ…ペリカンですか!?鳥…ですよね」
飼育部長、通称『A部長』は上機嫌で「そう♪」とだけ言った。
(ええぇぇ〜っ!)僕の心の声。
鳥大好きA部長、大満足。
でも翌日、トラックから降ろされたゲージを覗いて僕も満面の笑みを浮かべていた。
いや、自分で自分の顔を見ては居ないので定かではないが、さっとそうだったと思う。
真っ白い羽の綺麗な生き物、目がくりくりして、なんだか不器用そうに歩く。
僕はゲージに手を入れ1羽のペリカンをなでた。
「ココまで長かったね、お疲れ様。明日から僕が君のためになんでもしてあげるからね」
その返事は指にきつめのキスで始まった。
「…イテッ!」
確かに気のせいだと思うのだが、チョッとペリカンが困った顔をしたような気がする。
「大丈夫、痛くないよ」
ポケットから取り出したハンカチで傷口をくるむと、(あれっ…?)と軽いデジャブがよぎった。


その深夜、薄暗い大水槽を見下ろす『花さんご』から、明かりと談笑する声が聞こえていた。
どうやらお客様の接待であるらしかった。
こんな時間に?とは考えない方がいいだろう。
なぜなら今は営業時間外であり、ココは『水族館』なのだから。
「今年、ウチは3名でした」
浅野が客の手土産の熱い『ゴーヤ茶』をすすりながら言った。
「人事とはいえ飼育係の採用となると難しいなぁ」
同じく茶をすすりながら『美ら海水族館』の長崎佑がそうかえした。
「採用を任せるようになってウチは楽になりました。なんと言っても飼育される側からの苦情が激減しましたから」
「そのらしいね、羨ましい」本当に羨ましいのだろう、長崎は細い肩をいっそう落とした。
「生き物同士の関わりですから、相性というものは必ずあります。これから自分の世話をする人間を自分が選ぶ、まあ理に適っています。今まではコチラ側の都合だけでやってきたのです。そろそろ見直す時期に来ていました。採用の面接の手間が省けるだけでも私は万々歳です♪」
浅野は上機嫌で後ろを振り向きテーブルを指さした。
何かを持ってきてと言っているようだが、レストランの従業員が残っている気配は皆無である。
「飼育している側に選んでもらった数の多さが飼育員のステイタスね…。ウチは水族館というシステム以外からもいろいろ入ってくるから…頭イタイ」
ため息をつく長崎の前に皿一杯に盛られた『ウミブドウ』が置かれた。
持ってきた女性は軽く会釈をすると何も言わずにその場を立ち去る。
言葉が無いところを見ると、彼女はサンゴかもしれなかった。
「おや、今日はトリミングでしたか?」
「はい、沖縄のものにはかなわないですが、なかなかよく育っています」
「…どれ」と長崎はウミブドウを口に入れる。
潮の香りが周囲にたちこめた。プチンッと歯で噛みしめると足首でコバルト色の潮が満ちた。
「質の良い夢を見ている…」
「ここに来たかぎり、海草一本にも満足てもらいたいですから」
「ここはアチラと折り合いよく存在している、どっちもに居心地がいい場所です」
「ありがとうございます」
深夜の水族館では色々なもの達が境界線を越えてコチラ側にやってくる。
今この花サンゴで談笑してる2人も、果たしてコチラ側のものかどうかは定かでない。


「今日はすごくいいお天気になったね〜♪」
僕は最近『モモ』と安易に、しかし底なしに可愛い名前を貰ったペリカンと水族館の中をお散歩する日々をおくっている。
もちろん仕事である。
思えば水族館の飼育員になりたくてなりたくてそれが夢だったころ、満たされぬ思いと歯がゆさに泣いたこともあった。
ココに就職が決まった嬉しさで我慢できず帰りの新幹線のカーテンに顔をくるんで号泣したこともあった。
なんかいっぱいあったけど、夢を手放さずに居て良かったとすっごく思う。
かなえたかった夢や希望は、時が過ぎるほどに遠くなると誰しも思う。
でも、そうなりたいと願ったのは誰で、かなえたいと望んだのは誰なのか?
どのくらい時間が過ぎようと今自分がココにいるかぎり、なりたい自分は、きっと自分の中にいる。
だから僕はまだまだ夢の途中。モモ、僕を選んでくれてありがとうね。
「ねぇ、モモ。僕の話を聞いてよ。 ねぇ、モモ僕は今ね…」